Ntombi Ndaba - Tomorrow

Boiler Roomにも出演している南アフリカのDJで、Rush HourやCultures Of Soulなどのレーベルでも辺境系ブギーのコンピレーションのプロダクションも手がけているDJ Okapiが運営している音楽ブログ Afrosynth。ここは南アフリカのマニアックなシンセブギーの情報に超特化しているブログで、辺境系ブギー好きな人は知ってると思いますが、最近いよいよレーベルも始めてリリースも遂に第三弾目!もちろん再発・発掘レーベルとして活動していて、リリースもそそる内容のものばっかりなのでバンドキャンプとかでデジタルも売ってくれないかなと思ってたらこっちでも配信始めてくれました。バイナルで買うのが一番なんでしょうけど、出先で音楽聴くのが好きな身としてはそれが一番有難いですね。

今回、リリースされたのは、南アフリカで八十年代に流行ったバブルガム・ミュージック(南アフリカの大衆音楽の一形態で、コール&レスポンスするボーカルに電子キーボードやシンセサイザーなどが交わる音楽。詳しくはこの記事を参照)の代表的な歌手の一人、ントンビ・ンダバのコンピレーション・アルバム。

ントンビ・ンダバ(本名:Eleanor Ntombikayise Ndaba)は1958年2月28日、南アフリカ・ダーバン北部のズールラン地方のヴリヘイドに生まれました。アパルトヘイトのために、1960年代の初めに、彼女の家族は、数キロメートル離れた新しく建設されたeMondloという町に強制移住することを余儀なくされました。父親は地元の家具会社の運転手、母親は町の家庭のための家庭内労働者として働いていましたが、彼女は結びつきの強い家族の中で育ったそうです。彼女が購入した最初のレコードはマイケル・ジャクソンのバック・ボーカルも担当している同国の有名なシンガー、Letta Mbulu(最近、Africa Sevenからリリースされたコンピレーション・アルバムにも収録されたので聞いた人もいるかも?)の「Ngiyabuza」であり、彼女の受けた最大の影響元の1つだそうです。

10代のころ、彼女はeMondloのローカル・バンドのShameで歌い始めました。音楽に夢中になった彼女は、夢を追いかけ、他の多くの人々と同様に黄金の街、ヨハネスブルグへと向かうことになります。

 「歌手になることはいつも分かっていたの」 「私は教会や学校で歌っていたわ。全く恥ずかしがり屋じゃなかった。私は恥ずかしがり屋じゃなくて、私は率直な人間なの。私は歌うとき緊張しない、私はただ自由で、そして幸せを感じるの。」

ヨハネスブルグで若いントンビは"黒人劇場の父"と呼ばれたギブソン・ケンテの監督作品の「ハングリー・スプーン」のオーディションにも参加し、キャストとして出演しています。同じキャストには、まもなくバブルガム時代の大スターになる2人の若い歌手、Phumi MadunaとBrenda Fassieも参加していました。「ハングリー・スプーン」のスケジュールの休憩中、ントンビはeMondloに帰り、「ゴム」(恐らくコンドームの意味・・・)として地元民に知られる起業家A.T. Khozaの気を引きました。 感銘を受けた裕福なビジネスマンは、ントンビが必要とする全ての楽器を支払うことを含めて、彼女のためにバンドをまとめて提供することまでも賛成します。

「私が『ハングリー・スプーン』に出演していたときは、南アフリカ全土を渡り歩いていたものよ」「私が休日に家に帰ると、ギブソン・ケンテのもとに戻ることを考えて、『ゴム』が楽器のセットを買うように提案したの。私たちはヨハネスブルグのガロスタジオに来てバンドメンバーを集めたの。音楽家たちは仕事を待って外に座ってたわ。」

ントンビと「ゴム」は、キーボードにJerry DubeとBheki Zulu、Bongani Sitholeをベースに、Enock Nkosiをドラムとして最高のメンバーを揃えました。 「それが一緒にリハーサルを始めたときのことよ。『ゴム』は財力をバックに私たちに大きな家を与え、そこでリハーサルをしたわ。それが(ントンビのバンド)サバイバルが結成された時よ。」一方、ントンビと「ゴム」の関係は直ぐに栄えたようで、 「彼は実業家として私が一緒に歌った男たちを雇って、いくつかのショーをやるように頼んだの。私はそこにいた。そして、私たちはただ恋に落ちていったわ・・・ 」

バンドの最初の録音の機会は、ダーバンの南アフリカ放送公社(SABC)の窓口が、レコード・レーベル、Reamusicを成功させた人物Clive Riskowitz(別名Clive Risko)と連絡を取り合ったときに訪れます。 1985年、彼女のバンド、Ntombi&Survivalは、ヒット曲となる10分間のバラード"Think More About Me"を含む最初の二つのシングルをリリースすることとなります。そして才能ある作詞家やソングライターとして、最初の2つのシングルをリリースしました。それによって彼女はスターとして、才能ある作詞家、ソングライターとして世間に認められることとなります。

「受賞したことは一度もなかったわ。私が分かっていた唯一のことは、曲を演奏したときの私のファンの反応よ。彼らは何度もアンコールを求めることをやめなかった!彼らは驚きあきれて、その一部の人は私がそんなエネルギーを持っていたことを信じられなかったの。彼らはとても興奮していたわ。」

翌年、一躍スター階段を登り始めたNtombi&Survivalは、アルバム「I Am Trying and Dance The Night Away」のリリースとともに上昇を続けました。1987年までには前述のレーベル、Reamusicを離れ、当時最も巨大であったレーベルたちとサインすることとなります。同じくスター歌手である、Brenda Fassieの本拠地であるEMI傘下のCCP Recordsです。 Ntombi&Survivalは、EMIから1987年に二枚のアルバム「Sweet Love」と「What Is It With Me(Yami Ngami)」リリースしました。「ゴム」がプロデューサー&アレンジャーとしてクレジットされているときは、作詞作曲のクレジットはントンビとなっていましたが、バンドの曲作りに於いては特にキーボードであるJerry Dubeが重要な役割を果たしていました。より創造的に自由であることと健全な利益の削減を求めて、「ゴム」とントンビはCCPと提携して独自のレーベル「アネコ」を設立します。新しいレーベルの設立によって、シンガーはソロとなり、より広範なグループのセッション・ミュージシャンと仕事を始め、他のアーティストのプロデュースにも関心を寄せていくこととなります。ントンビは1988年にNtombi Ndaba名義のソロ・デビュー作としてファースト・アルバム「Mina Ngilijaji」をリリース。アーティストとして、そして、一人の女性としての独立を強く確信するタイトル・トラックを始めとした楽曲は彼女のファンへとヒットを記録。この作品には、ントンビのフェイバリットであるイギリスの国際的歌手、ジョーン・アーマトレイディングの楽曲"Weakness In Me"のカヴァーも含まれています。,

ピーク時にもなると、ントンビと彼女のバンドは、南アフリカの各地で月に20回のショーを行うスケジュールがありました。しかし、ントンビが1985年に名声に上げたのと同じように、90年代初頭には彼女は姿を消してしまいます。彼女の最愛の人物である「ゴム」の予期せぬ死の後、彼女はソウェトにある彼らの家を売却し、eMondloの家族の元に戻って、レコーディングや演奏をすることはありませんでした。それ以来、彼女はヨハネスブルグの街灯りと南アフリカで最も愛され、才能のあるアーティストとしての彼女のイメージからは遠く離れ、母親と一緒に静かな余生を送ることとなります。

彼女のアーティストとしての最後に「ゴム」が深く絡んでいるところについ涙腺がうるると来てしまいましたがね・・・

本作は、「Mina Ngiljaji」 (1988)、「Mama Nature」(1989)、「Why Me」(1991)といったアルバムからも楽曲が収録された彼女のアンソロジーとしてリリース。ダンス・フロアを熱くさせるタイトルトラック"'Tomorrow'"を始めとする名曲揃いです。マスタリングも現行レフトフィールド系好きにはたまらないBrandenburg Masteringと凝ってますね。

バブルガム・ミュージックもアメリカで昔流行っていたので、若い人ならグラセフのラジオとかで耳にしていたりと意外と馴染み深い音楽でもあるんじゃないかなと思います。僕自身そうなのでこの音楽には凄く懐かしい感じがしました。

バブルガム系統であれば、去年、Afrosynthの同友とも言うべきAwesome Tapes From Africaが同国のUmojaをリイシューしていたりするので、そっちが再発してもおかしくないなと思ったんですが、南アフリカ愛でAfrosynthに軍配が上がった感じでしょう。

タウンシップ・ジャズやクワイト、昨今流行りのGqomにしても同国の音楽は奥深いのでもうちょっとしっかり掘り下げてみたいものです。