ルイジ・ノーノの半生について

20を過ぎてから、時の流れは速すぎるかのようで、あっという間に今年も終わってしまいそうです。昨日はどうやら寝てる間に初雪が降っていたようで、季節の移ろいは本格化しています。さて、先日も、韓国出身の現代音楽家とノーノについて話す機会があったので、せっかくなので彼について話したことを記事に起こしてみました。

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ノイジ・ノーノは、1924年1月29日、ベネチアの生まれ。1941年からヴェネツィア音楽院で理論をジャン・フランチェスコ・マリピエロに学び、のちにバドヴァ大学で法律も学びました。師匠であり、指揮者/作曲家のブルーノ・マデルナから作曲をしたらどうかと提案されて作曲を始め、その繋がりから、マデルナの師でもあったドイツ人ヘルマン・シェルヘンとも知り合って音楽的教えを受けて、セリー技法を習得しています。

1950年にダルムシュタット夏季現代音楽講習会に出席。この講習会とは、ドイツのダルムシュタットに、現代音楽に携わる様々な人々が集まり、好きな先生にレッスンを受ける場所で、楽譜も発表したりと小さなフェスティバルみたいなもの。(現在は昔ほどの影響力はないようです)。そして、ここでノーノは、シェーンベルクのカノン変速曲である、"Variazioni canoniche sulla serie dell'op. 41 di A. Schönberg"を発表して認められることとなります。ピエール・ブーレーズカールハインツ・シュトックハウゼンとはここで出会い、50年代にはヨーロッパを代表する「トロイカ」と呼ばれるようになりました。

ノーノとは、ファシズムに抵抗した情熱的な若い作曲家でもあり、戦時中は、レジスタンスにも参加していました。また戦後は、52年にマデルナと共にイタリア共産党に入党しており、政治的な面では、ブーレーズシュトックハウゼンとは差別化を果たします。

また、55年には、彼はもともと婚約していたと思われるシェーンベルクの娘ヌリアと結婚。1954年に書いた曲である"Das Liebeslied"(愛の歌)をヌリアに贈っています。

また、50年代に発表した重要な作品に"Il canto Sospeso"(1955-56)が存在しています。十二音技法と奇妙なセリーを使った用いた曲で、これが大変ヒットして一気に国際的な作家としての地位が確立され、世間からは、ヴェーベルンの後継者と呼ばれました。

これはストラクチャーやパフォーマンスと感情が融合した音楽で、1950年代では一番重要な曲とされています。そして、ファシズムの犠牲者を弔うための曲であり、獄中の犠牲者達が処刑される前に書いた手紙の内容などが含まれています。それを用いた声楽とインストゥルメンタルミュージックとの自然な融合はもちろん、歌詞が音節によって分かれる特殊なテクニックを入れて、非常に重要な曲となりました。シュトックハウゼンはこの曲に対し、「テキストの意味を伝達するに問題があり、無駄に密度が高くて、実際演奏であまり効果がない」と批判したことで論争になり、一度、シュトックハウゼンは訂正するものの、最終的に喧嘩別れとなります(後述)。

ノーノは、ファシズムに抵抗する作品を作り続けており、1960年代の曲である、舞台劇"Intolleranza"が上演されたときはベネチアで暴動が起きたというゴシップもあるほどの政治的な作品でした。

ノーノは、ジョン・ケージが嫌いで、偶然性のある音楽を批判し、これらの音楽家と距離を置いていました(それと対照的にシュトックハウゼンはケージは対立線上で説明していた)。ノーノは、偶然性の音楽に対し、偶然性の音楽をやることは、簡単であり、皆が皆やっているというファシズム的なストラクチャーは危険であると批判しており、このときシュトックハウゼンとまた論争になり、これでトロイカは終焉を迎えてしまいます。

1960年代に入ってからは、ノーノの音楽は、もっと攻撃的で露骨な音楽へと変化していき、"CANTI DI VITA E D'AMORE"(広島の橋の上で)や"La fabbrica illuminata"、さらにはベトナム戦争批判の楽曲である"A floresta e jovem e cheja de vida"までも存在します。また、"La fabbrica illuminata"に始まるように、六十年代からはテープ音楽や電子音を使い始めることになります。

70年代には、舞台劇、"Al gran sole carico d'amore"を書き、社会主義と資本主義社会の闘争を劇として描きました。その時期にソ連に訪れ、アルフレート・シュニトケと出会い、アヴァンギャルド音楽を紹介するなど、ラテンアメリカを含めた海外へと渡り、現代音楽の普及に努めていました。チリの左派の革命家、ルチアーノ・クルーズ(Luciano Cruz)が暗殺された際に作った曲もあるくらいで、以下の二番目のリンクの第一曲は、表現主義の激しい曲であり、オーケストラやテープ、電子音を用いたピアノコンチェルトのようなものでした(ポリーニのために作った曲はピアノとテープを用いた二番目の曲)。

80年代は、作曲テクニックによる違う方向からのアプローチを試み、エンジニアなどとも交流したりしています。この時期で一番有名な曲は、"Fragmente-Stille, an Diotima for string quartet"。大変静かな曲で、弦の音がメルトするのが非常に自然であり、16もの弦が付いている楽器で演奏されるストリングコンツェルト。様々な種類のフェルマータ(Fermata)を駆使して、音が揺れるような技法も使っている難解な曲。音響が空間の中で循環するように設計されており(イヤホンでは分からない)、これも革新的と認められました。

また、この時期、ベネチアの哲学者である、Massimo Cacciariと知り合い、その影響でドイツの哲学者、Walter Benjaminとも知り合って、ドイツ哲学に没頭し、ソレにインスパイアされて作った曲も存在します。それが1984-1985年の"Prometeo: tragedia dell' ascolto"。これは20世紀最大の作品の一つと言われています。

1988-1989年に書かれた"La lontananza nostalgica utopica futura"。ユートピア的未来に対する静かな憧れを込めた曲で、恐らくこれがノーノの最後の曲と思われます。

死が近づいたところでトレドのある修道院へと赴き、そこに書かれた 「旅には決められた道はない。旅行そのものがあるだけだ。」をモットーに死へと向かい、1990年5月8日、生まれの地ベネチアで棄世されました。彼の葬式には、彼の影響を受けた人々や友人たちが集うこととなり、サン・ミケーレ島に埋葬されました。資本主義の本元のイギリスやアメリカではノーノの影響は少ないとされますが、ヨーロッパでの影響は非常に強く、小説家のウンベルト・エーコなどがノーノの表現性や政治性へと敬意を表していました。1993年、妻のヌリアが彼の遺産を保存するために博物館を設立。今日まで続いています。社会的にも表現的にも異端の道を歩み、様々な批判を浴びたノーノですが、他者からの影響を受けず、自分の道を貫いたという彼の姿勢は特筆に値するでしょう。